2013年02月01日

物書き心得次第の巻

 70年代のアメリカのロックバンド、ドアーズのジム・モリソンやボブ・ディランなどのミュージシャン達にも多大な影響を与えたという小説家、ジャック・ケルアックの創作作法。
 人が何かしらをしたためるときの虎の巻になるのではないかと常々感じているので、それをご紹介しましょう。

1 自分自身の喜びのために秘密のノートをつけ乱雑なタイプを打つ。


2 あらゆるものに対して柔順になり、偏見をもたず、耳を傾ける。


3 自分の家の外では絶対に酒を飲まないようにする。


4 自分の人生を愛する。


5 あなたが感じるところのものは、それ自身の形態を見い出すだろう。


6 くだらない精神に囚われず熱狂する。


7 自分の好きなだけ深く息を吹きかける。


8 心の底から際限なく望むことを書く。


9 個人というものに対して語りえぬヴィジョンをもつ。


10 作品にではなく、たしかに存在するものに時間を費やす。


11 空想的で病的な執着で胸を震わせる。


12 トランス状態の凝視によって目の前のものを夢想する。


13 文学的、文法的、統語論的なものを排除する。


14 プルーストのように、時間について年をとったマリファナの常用者のように考える。


15 内面の独白でもって世界の真実を物語る。


16 重要かつ貴重な中心は、眼の奥にある眼である。


17 自分自身を回想し驚きつつ書く。


18 含蓄ある並みの眼から抜け出て、言葉の海を泳いでいく。


19 永遠に損失を受け入れる。


20 人生の聖なる輪郭を信じる。


21 心の中で傷ついておらず、あらかじめ存在する流れを描写するよ うに努める。


(「現代散文のための信念と技法」ジャック・ケルアック 著、城戸朱 理 訳)

 以上ですが、ただ3番目の、自分の家の外では絶対に酒を飲まないようにする。というのは守らなくてもいいと思いますけどね。
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2013年01月31日

身捨つるほどの祖国はありや

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

これは寺山修司の短歌である

 向日葵や 信長の首 斬り落とす   

これは角川春樹の俳句である

 身からでましたさびゆえに

 嫌なポリ公にパクられて

 手錠をかけられ意見され

 着いたところが裁判所

 これはネリカン(練馬少年鑑別所)ブルースというよみ人知らずの歌である。つまり作者不詳。
 上記の三点はいずれも五七調、あるいは七五調のリズムで刻まれているのであるが、これらの中にある日本的詩歌の共通性もしくは普遍的かつ通俗的な暗さの根源について今さら語るつもりはないけれども、ぼくは市井の人々が書き遺してきた膨大なよみ人知らず歌に興味があるのだ。
 それらは発禁本もしくは放送禁止用語連発の本としてどこかの家のタンスの奥深くに密かに埋もれていたりする。
 人が本を作る動機はさまざまだろうと思うけれど、また人は自分だけの本、自分だけが自己満足するためにのみ何かを書き残そうとするもののようでもある。
ネリカン(練馬鑑別所)ブルースの続きは…

 たっしゃでいるかよ

 おっかさん嫁に行ったか妹よ

 呼んでみたってふるさとは

 夢でみるよりまだ遠い

 青いバスに乗せられて

 ゆらりゆられて行く先は

 その名もたかき練馬区の

 東京少年鑑別所

 

 実のところ、身捨つるほどの祖国などどこにもなくて、そこには義憤と孤独と涙に彩られた個としての人間のペーソスが流れているだけであるのだが。

 ロックだ、ジャズだ、マイケル・ジャクソンだと言いながら結局、最後には決まって美空ひばりを歌いだすカラオケでの日本的情景やいかにである。

 本を作りたいものの気持ちなんて、誰が分かると言うんだい?

『詩とは成熟した自然であり、哲学とは成熟した理性である。 』

ゲーテ 「格言と反省」

『詩は真理の全体を包含し、哲学はその部分を表現する。 』

ソロー 「日記」

 ソロソロ、詩的な、私的な作品を読みたくなってもいい頃合いだけどね。村上春樹オンリーには呆れてしまう今日この頃である。

 
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2013年01月30日

出版のワンダーランド

ある日のこと、出版の森に足を踏み入れてみたらいつのまにかすっかり迷子になっていた。
 あたりはうっそうと茂った緑の密林でときおり聞こえてくる野鳥の声に思わず身構えてしまう。けれども勇気を振り絞って更に奥へと踏み出してみると、やがて密林は切れて前方には観たこともない不思議な光景が現れるのであった。といったような経験はないだろうか。
 これはほとんどないと思う、と断言するのにはわけがある。
 本を出したい人の多くが、少なからず出版に幻想を抱いているのではないか。それは例えば宝くじを買う動機と通底しているかもしれない、両方とも夢を買っているのではないかという点で。
 けれども一方ではやがてこの夢は儚いものだと分かってくるのだ。
 そして、宝くじで億万長者になることはほとんどが希有なる幸運の持ち主に限られるけれども、出版の場合はまったくそうではないと思い至るのである。
 出版はどこの宝くじ売り場(出版社)で買ったから(あるいは 売ったから)当たるというものではない。出版は宝くじのように不確実性の高い他者のトリック(仕掛け)に乗っかって買い付けるものではなく、こちらからの己が仕掛け(作品)を世界に向けて売りつける行為に他ならない。
 そしてこれらの仕掛けを弄して展開される──出版に限らないことだけれど──凡百のビジネス戦略は確実な成果を希求するものであり、そうでなければ目的は達成されないのである。反対に本を出す行為はこれらの資本の論理とは無縁なところで一部成り立っている。つまり競争原理を働かせないような仕組み──再販制度というもので守られているのだ。だから無名の人でも本を出すことの機会均等を付与されている。それで世の中に流通させることもできる。もしもここに市場原理が 働いているなら、無名の作家が世に出るチャンスは限りなくゼロになってしまうだろう。 
 他の森のことはいざ知らず、本の森に潜む獲物を照準するための銃口(ペン先)をそこらじゅうに光らせたところで、そこで獲物を確実に発見し、ハンティングできるという保証はどこにもない、それがこの森の不可思議(ワンダーランド)であるゆえんである。

 最近、「何であんなもんがあんなに売れるんかいな」としばし考えこんでしまうのは、私ばかりではないだろうけれど。
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