作者のトールキンは物語オタクだと思う。でもこのオタクはただのオタクではなかった。彼はこの指輪物語に出てくるエルフ語などの人工言語を実に十五も創作しているのである。
そもそも、もしも物書きという狂気と熱をあわせ持つような野心家がいたとして、自らの物語の中に人間がひとりも出てこない架空の異世界を造形したとしたら、そこで話される言語はいったい何語なのだろう? という素朴な疑問が湧いてくる。例えば、よくアメリカ映画に出て来る第二次大戦中かなんかの戦場シーンで、いきなり敵のドイツ兵が平気で英語を喋るのはちょっと変である、そしてそれを日本語に吹き替えた場合、そこだけは字幕にしてもらわないと実はおかしいと思うけど、そういうことは無神経に結構無視されて作られていたりする。
トールキンは同じことを考えていたのかもしれない、だから指輪物語は、ホビットが日常的に使用しているところの西方語(作者の創作言語)で書かれた原文を、著者が現代英語に翻訳したものであるということになっているのである。
トールキンは言語にとどまらず、この物語の中心舞台である「中つ国(なかつくに)」に登場するあらゆる種族の歴史、伝統、地理、風習、衣装などの細部に至るまで克明かつ完璧に造形したものだから、それが全体の作品としての仕上がりに奥行きを与えているのは確かだ。
読んだ後に、細長いボルトの先にのっけた対のナットが指先だけの力でクルクルと勢いよく回転していくような心地よさが残る。
それがこの物語をしてゲームソフトのファイナルファンタジーや、ドラゴンクエストをはじめとするRPG(ロールプレイングゲーム)やアニメ、ファンタジー小説、漫画などあらゆる今日的ジャンルに多大な影響を与えつづけている理由なのかもしれない。
そして何よりも彼は言語学の研究者だったから、1930年には世界中から集まって開かれたエスペラントの会議にも出席している。このときはまだ指輪物語は書き始めていないのだけれど、すでに彼が人工言語の創作に着手していたのは間違いない。
エスペラントとは19世紀の末に世界の共通語として使われることを願ってユダヤ人のザメンホフという人が考案した人工言語であるが、その意味では酒井法子のノリピー語も同じだと言えなくもないが…。
エスペラントの普及目的は、言うまでもなく世界中の人と人とが共通の言語で会話できるようになることであり、結果、例えば北朝鮮の金 正恩総書記と日本の安倍首相がエスペラント語で直接電話会談できたり、メールできることになったり、世界中の人々が人種や思想や言語の壁を乗りこえて、通訳なしで会話が成立するという意味あいは絶大だと思う。もちろんそうなった場合、エスペラントで作品を書いて出版しさえすれば、世界中の読者に向けて本の出版ができることになるのだ。
私は高校生の時に英語の先生からエスペラントの存在を教えてもらった。先生はかなりエスペラントが堪能であったようだけど、先生が言うには、エスペラントのような人工言語には文法に当てはまらない、いわゆる慣用句のような例外がまったくないから覚えやすいという。それに比べると日本語をはじめとする現在使われているあらゆる世界の言語は文法的な例外が多すぎる。これは一面では当たり前でもある。つまりその文法はその完成された言語に後講釈でくっつけたものだからだ。だから、そっちの例外のほうを覚えるのが大変なことになっている。エスペラントはそれがない分覚えやすいという。
「君も、是非エスペラントをやってみないか」先生は熱心に誘ってくれたけれど、私はやんわりとお断りした。(必須英語でさえオタオタしてたのだったから)
エスペラントが最初の崇高な理想とはうらはらに現在でもほとんど世界中に広がっていない(推定150万人くらいか)のはどういうわけだろう?。
とはいえ、エスペラントの持つ言葉としての語感のおもしろさの需要は以前からあったようで、あちこちでエスペラントが使われていないことはない。
以下Wikipediaより引用
宮沢賢治のイーハトーブ(岩手)、モリーオ(盛岡)などはエスペラントをアレンジしたもの。車でいえば、ホンダのセダンでフェリオ(休日)、プロ野球のヤクルトはヤフルト(ヨーグルト)をもじったもの。東京丸の内の複合商業施設、オアゾはオアーゾ(オアシス)のエスペラントの変形。
これらを見る限りエスペラント恐るべしであるが、現実にはこれが理想とはうらはらに未だ世界に拡がる気配がない理由のひとつに、私はエスペラントにはそれを走らせるためのエンジンオイルが足りないのではないかと思っている。これはマルクスの資本論とか、身近なところではまったく売れない自費出版の本とか、同じ匂いがしていて結局同じ結果になっているのではないか。
ここでいうエンジンオイルのことを、メランコリーの暗渠(水路)と言ってもいい。メランコリーとは、生きとし生けるものが抱くぬめりや体温のようなものが醸しだすところの心のひだに漂うもののありようのことである。
強固なる理念にうらうちされた鉄のような堅牢な言葉を機関銃のように打ち出したところで、冷徹な魂の機械はピクリとも動こうとはしないのだ。きっと我々には透きとおった黄金色をした春の野の花オイルが必要なのだと思う。そして紡ぎ出されるあまたの物語をはじめ、この現実世界でさえも物事をなめらかに動かすには同じことがいえる。
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