2013年01月29日

キャッツと暗黒の塔と詩人と…

 劇団四季で、いまだにロングラン公演を続けるミュージカル・キャッツであるが、このもとネタが、ある一冊の詩集が下じきになっているのだということはあまり知られていないような気がする。ただし日本人にはである。
 登場人物というか登場猫のマキャヴィティをはじめ、もともと、この話は英国の詩人 T.S.エリオットが書いた詩集「ボッサムおじさんの猫とつき合う法」に出てくる猫たちに由来する。泥棒猫のランベルチーザ、あまのじゃく・セクシー猫のラム・タム・タガー、悪の王マキャヴィティなど、かなり原作に忠実なキャラクターではある。後で創作したキャラクターもあるにはあるけれど。
 もうひとつ、キャリーやシャイニング、スタンドバイミーなどの映画でもおなじみの今やアメリカンホラーの巨匠、スティーヴン・キングが自らのライフワークと称している「ダーク・タワー、暗黒の塔」七部作は、知る人ぞ知るであるが。
 キングはこの作品を完成させるにはあと200年はかかると豪語(謙遜)しているシロモノであるけど、この物語の着想について、ロバート・ブラウニングの詩集「童子ローランド暗黒の塔にいたる」から想を得たとその第一作、ガンスリンガー(拳銃使い)のプロローグなどにつづっているのだ。
 ここで私は、どうしてなのかなあと思うのである。外国では詩の存在がこのように創作者の想像力を痛くかき立てるほど、シゲキテキな存在であるようなのに日本ではさっぱりであるのは…。
 今の日本では大きな書店ですら詩集のコーナーを探すのは困難である。売れないから置かなくなったのか、置かなくなったから余計に売れなくなったのかは分からないけど。
 メキシコの詩人にオクタビオ・パスという人がいる。日本の有名人に例えるなら、おそらく北島三郎か、大江健三郎くらいメキシコでは著名人かもしれないと思うけど、日本人でこの人知ってる人いったいどれだけいるんだろう。
 1990年に彼がノーベル文学賞を受賞したときに、ユリイカという詩の雑誌で特集を組んでいて、私は仕事の資料探しの途中に、偶然それを六本木の青山ブックセンターで見つけて知ることになったわけだけど、最近、彼の本を近所の書店で見つけることはまったくできない。
 寺山修司がいみじくもいった30年以上も前の科白を思い出す。
「最近、思うのである、もはや詩人とは、文化人とか医者とか、職人とかいう職業的な範疇ですら語ることができない位になりさがったものだ。むしろ詩人とは名詞ではなく形容詞ではないかとさえ思う。あの人は美人だなあという時の、あの人は詩人だなあという使われようである」原文はもっと格調高かったと思うけど、まあそんな内容だった。
 つまり美人だなあと、詩人だなあとが同じなら、これは何だか人を小馬鹿にするときの使われようではないか、これではお世辞のひとつにもなりはしない。
 日本の詩は近年の地球温暖化に抗して、ますます冷えていく。では、これを逆手にとって、よく冷えたビールあります、のノリで「よく冷えた詩集あります」というキャッチコピーで詩集を出してみてはいかがでしょうと思い至ったのである。冷え切った世の中を映し出すようなちょっとイミシンな写真などを適当に添えたりして…。これは世界へのアンチテーゼになり得る!?
 そんな詩画集を誰か書いている人はいませんかー。
 いないだろうな、たぶん。いても売れないと思われてるわけだし。
 韻文が冬の時代の文化はとても貧しいと思う。
タグ:自費出版
posted by fujibooks.com at 09:22| Comment(0) | プラチナ通りの貸本屋
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