2013年01月31日

身捨つるほどの祖国はありや

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

これは寺山修司の短歌である

 向日葵や 信長の首 斬り落とす   

これは角川春樹の俳句である

 身からでましたさびゆえに

 嫌なポリ公にパクられて

 手錠をかけられ意見され

 着いたところが裁判所

 これはネリカン(練馬少年鑑別所)ブルースというよみ人知らずの歌である。つまり作者不詳。
 上記の三点はいずれも五七調、あるいは七五調のリズムで刻まれているのであるが、これらの中にある日本的詩歌の共通性もしくは普遍的かつ通俗的な暗さの根源について今さら語るつもりはないけれども、ぼくは市井の人々が書き遺してきた膨大なよみ人知らず歌に興味があるのだ。
 それらは発禁本もしくは放送禁止用語連発の本としてどこかの家のタンスの奥深くに密かに埋もれていたりする。
 人が本を作る動機はさまざまだろうと思うけれど、また人は自分だけの本、自分だけが自己満足するためにのみ何かを書き残そうとするもののようでもある。
ネリカン(練馬鑑別所)ブルースの続きは…

 たっしゃでいるかよ

 おっかさん嫁に行ったか妹よ

 呼んでみたってふるさとは

 夢でみるよりまだ遠い

 青いバスに乗せられて

 ゆらりゆられて行く先は

 その名もたかき練馬区の

 東京少年鑑別所

 

 実のところ、身捨つるほどの祖国などどこにもなくて、そこには義憤と孤独と涙に彩られた個としての人間のペーソスが流れているだけであるのだが。

 ロックだ、ジャズだ、マイケル・ジャクソンだと言いながら結局、最後には決まって美空ひばりを歌いだすカラオケでの日本的情景やいかにである。

 本を作りたいものの気持ちなんて、誰が分かると言うんだい?

『詩とは成熟した自然であり、哲学とは成熟した理性である。 』

ゲーテ 「格言と反省」

『詩は真理の全体を包含し、哲学はその部分を表現する。 』

ソロー 「日記」

 ソロソロ、詩的な、私的な作品を読みたくなってもいい頃合いだけどね。村上春樹オンリーには呆れてしまう今日この頃である。

 
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2013年01月30日

出版のワンダーランド

ある日のこと、出版の森に足を踏み入れてみたらいつのまにかすっかり迷子になっていた。
 あたりはうっそうと茂った緑の密林でときおり聞こえてくる野鳥の声に思わず身構えてしまう。けれども勇気を振り絞って更に奥へと踏み出してみると、やがて密林は切れて前方には観たこともない不思議な光景が現れるのであった。といったような経験はないだろうか。
 これはほとんどないと思う、と断言するのにはわけがある。
 本を出したい人の多くが、少なからず出版に幻想を抱いているのではないか。それは例えば宝くじを買う動機と通底しているかもしれない、両方とも夢を買っているのではないかという点で。
 けれども一方ではやがてこの夢は儚いものだと分かってくるのだ。
 そして、宝くじで億万長者になることはほとんどが希有なる幸運の持ち主に限られるけれども、出版の場合はまったくそうではないと思い至るのである。
 出版はどこの宝くじ売り場(出版社)で買ったから(あるいは 売ったから)当たるというものではない。出版は宝くじのように不確実性の高い他者のトリック(仕掛け)に乗っかって買い付けるものではなく、こちらからの己が仕掛け(作品)を世界に向けて売りつける行為に他ならない。
 そしてこれらの仕掛けを弄して展開される──出版に限らないことだけれど──凡百のビジネス戦略は確実な成果を希求するものであり、そうでなければ目的は達成されないのである。反対に本を出す行為はこれらの資本の論理とは無縁なところで一部成り立っている。つまり競争原理を働かせないような仕組み──再販制度というもので守られているのだ。だから無名の人でも本を出すことの機会均等を付与されている。それで世の中に流通させることもできる。もしもここに市場原理が 働いているなら、無名の作家が世に出るチャンスは限りなくゼロになってしまうだろう。 
 他の森のことはいざ知らず、本の森に潜む獲物を照準するための銃口(ペン先)をそこらじゅうに光らせたところで、そこで獲物を確実に発見し、ハンティングできるという保証はどこにもない、それがこの森の不可思議(ワンダーランド)であるゆえんである。

 最近、「何であんなもんがあんなに売れるんかいな」としばし考えこんでしまうのは、私ばかりではないだろうけれど。
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2013年01月29日

キャッツと暗黒の塔と詩人と…

 劇団四季で、いまだにロングラン公演を続けるミュージカル・キャッツであるが、このもとネタが、ある一冊の詩集が下じきになっているのだということはあまり知られていないような気がする。ただし日本人にはである。
 登場人物というか登場猫のマキャヴィティをはじめ、もともと、この話は英国の詩人 T.S.エリオットが書いた詩集「ボッサムおじさんの猫とつき合う法」に出てくる猫たちに由来する。泥棒猫のランベルチーザ、あまのじゃく・セクシー猫のラム・タム・タガー、悪の王マキャヴィティなど、かなり原作に忠実なキャラクターではある。後で創作したキャラクターもあるにはあるけれど。
 もうひとつ、キャリーやシャイニング、スタンドバイミーなどの映画でもおなじみの今やアメリカンホラーの巨匠、スティーヴン・キングが自らのライフワークと称している「ダーク・タワー、暗黒の塔」七部作は、知る人ぞ知るであるが。
 キングはこの作品を完成させるにはあと200年はかかると豪語(謙遜)しているシロモノであるけど、この物語の着想について、ロバート・ブラウニングの詩集「童子ローランド暗黒の塔にいたる」から想を得たとその第一作、ガンスリンガー(拳銃使い)のプロローグなどにつづっているのだ。
 ここで私は、どうしてなのかなあと思うのである。外国では詩の存在がこのように創作者の想像力を痛くかき立てるほど、シゲキテキな存在であるようなのに日本ではさっぱりであるのは…。
 今の日本では大きな書店ですら詩集のコーナーを探すのは困難である。売れないから置かなくなったのか、置かなくなったから余計に売れなくなったのかは分からないけど。
 メキシコの詩人にオクタビオ・パスという人がいる。日本の有名人に例えるなら、おそらく北島三郎か、大江健三郎くらいメキシコでは著名人かもしれないと思うけど、日本人でこの人知ってる人いったいどれだけいるんだろう。
 1990年に彼がノーベル文学賞を受賞したときに、ユリイカという詩の雑誌で特集を組んでいて、私は仕事の資料探しの途中に、偶然それを六本木の青山ブックセンターで見つけて知ることになったわけだけど、最近、彼の本を近所の書店で見つけることはまったくできない。
 寺山修司がいみじくもいった30年以上も前の科白を思い出す。
「最近、思うのである、もはや詩人とは、文化人とか医者とか、職人とかいう職業的な範疇ですら語ることができない位になりさがったものだ。むしろ詩人とは名詞ではなく形容詞ではないかとさえ思う。あの人は美人だなあという時の、あの人は詩人だなあという使われようである」原文はもっと格調高かったと思うけど、まあそんな内容だった。
 つまり美人だなあと、詩人だなあとが同じなら、これは何だか人を小馬鹿にするときの使われようではないか、これではお世辞のひとつにもなりはしない。
 日本の詩は近年の地球温暖化に抗して、ますます冷えていく。では、これを逆手にとって、よく冷えたビールあります、のノリで「よく冷えた詩集あります」というキャッチコピーで詩集を出してみてはいかがでしょうと思い至ったのである。冷え切った世の中を映し出すようなちょっとイミシンな写真などを適当に添えたりして…。これは世界へのアンチテーゼになり得る!?
 そんな詩画集を誰か書いている人はいませんかー。
 いないだろうな、たぶん。いても売れないと思われてるわけだし。
 韻文が冬の時代の文化はとても貧しいと思う。
タグ:自費出版
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